「そこにあった」というどうしても逃れられない大前提のもとにあった写真。そこにあったという一貫した事実のもとに表現されているもの。その大前提の原点として、様々な方法で表現されてきたこれまでの写真。そこにあった事実をそのまま写すことや、はたまた、そこにあったものとはかけ離れたものとして残すこと。いずれにせよ、そこにあったという前提はどうにも変えることはできない。その大前提に縛られ続け、様々なことが行われてきた。
一方、技術の発展により、そこにあったという大前提が全く持ってなくなってしまった時代は、現実とは一切無関係のものにもなることができるようになった。これまで縛られてきたものから解放された写真は、これまでの写真の見方を大きく違うものにした。そこにあってなくてもどうでもよい。そこにあったという大前提を保証するものは皆無となり、現時点では、なにもそこにあったという保証がなくなった。つまり、思い出や記録なども全く持って信用できる過去の事実の痕跡さえもなくなってしまったということである。
ただ、これまでの狭義の写真概念に対する思い入れというものは消えず、そこにあったという大前提を無意識のうちに秘めている。なにを信用すればよいのか全く分からないながらも、希望的な思いは消えない。かといってその思いを保証するものは何も無い。
そこをうまく騙す、つまり、そこにあったという大前提と、そんなものなど現実には存在しなかったという、二律背反が鬩ぎあうこと、騙しあい続け、疑い続け、途方もない当ての無い、何も生み出さない感情を弄ぶものに変貌した、この時代の写真が生まれた。
これからの時代、現実というものがとても不安定なものになり、イメージとの境界線がなくなる。でも人々はつねにその境界線を探す。探すことでほっとして、安心してそれを受け入れることが出来る。つまり、イメージ過多の時代だからこそ、事実を求めたくなる。でも写真はその感情を弄ぶことが出来るのだ。
これまでの写真は、現実をもとに嘘をつくり続けてきて、その曖昧さを楽しんできた。そこにあったという大前提があるからこそ、嘘でも安心して受け入れられることができる。ただ、これからは違う。その大前提がなくなってしまうことで、何一つ信用ができなくなる。誰しもが途方に暮れてしまう。写真で人を騙し続け、混乱させる。これ以上現代人に不安なものを与えるものはない。つまり、全く持って普通なもの、一切の疑いがないものも、実は全くの嘘だったという事実を突きつけることがこれからの写真には可能になる。
本当は現実としてそこにあった、がしかし嘘をつこうとしていた写真が、嘘でもなんでもなく、ただのイメージに過ぎないこれからの時代。
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